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既視感(デジャヴュ)について

 初めて見る風景なのに、過去に見たことがあるように感じたり、初めて聞く話なのに以前に聞いたような気がしたりすることを既視感というらしい。

 辻仁成の小説「白仏」で度々主人公が経験する既視感というものに興味を持った。自分は経験あるだろうか、と思い返してみた。どうも子供の頃とか、そういうものがあったような気がしなくもない。でもはっきり憶えていない。

 既視感とは違うかもしれないが、初めて行った場所で妙に居心地がいいというか、帰ってきてからも何故かその場所のことが気になったりすることがある。別に風光明媚な場所でも何でもないのだが、何故か記憶に残る場所があったりする。また訪れてみたいな、と思えるようなそんな場所がある。

 以前、鳥栖から有明海を目指して筑後川沿いをずっと自転車で下ったことがある。夏の暑い日だった。河口に近い場所に筑後川昇開橋がある。充分歴史を感じさせるその橋を超えると大野島がある。左手に筑後川を見ながら運動公園を越えると、右手にだだっぴろい田園が広がり沼のような有明海が姿を見せる。やたら高い堤防の上を自転車で走らせていると、自分がとてつもなく小さく感じ、それと同時に空虚な気分になった。筑後川の終点がこんなに寂しい場所とは思わなかったからだ。よく都会で見られる海にそそぐ河口の開放感などとは無縁の場所だ。

 そんな経験もあり、筑後川河口のこの大野島のことを何故かたまに思い出したりすることがあった。何故か妙に印象に残った場所のひとつだった。

 先週手にした辻仁成の小説「白仏」はその大野島が舞台だった。大野島が舞台であることを知って手にしたわけではなかった。図書館にあったからたまたま借りただけだ。読んでいると驚いた。この小さな島を舞台にこれだけの物語が書けるのか、と。著者の祖父がこの島で生きた人らしく、伝記的要素もあり、数十年前の島に橋が架かる前の当時の人たちの暮らしぶりがよく分かる。本は「白仏」という名前から連想されるような仏教的な要素はあまりないのだが、物語の最後にそのタイトルの意味が分かるようになる。主人公は晩年、放置されて誰も世話をしなくなった墓や、墓ばかりになってしまい新たな墓地を探すのが難しくなってきていることを憂い、遺骨を一度全部集めてミックスし、それを粉砕し、その骨の粉で白仏を作ろう、と考えるのだ。そこまで思い至るには長い主人公の歴史があるのだが。主人公は土葬の墓は掘り返し、骨を綺麗に洗う。何千体もの遺骨を掘り起こしてゆく。

 実際に、白仏が完成間近の段階になって主人公は死に小説もそこで終わった。読んだ後調べると、小説のとおり大野島の勝楽寺というところに白仏があるらしいのだ。本当に何千体もの遺骨からできているらしい。

 読んで感じたのは、あの何もない殺風景な島にこれだけのストーリーが凝縮されているのがビックリだった。自転車で訪れたときに感じたあの感覚が物語に度々登場する既視感と繋がっているような気がした。正直辻仁成がこれだけの文章を書けるとは。何もないような場所にでもそこには幾重もの人々の営みがあったのだし、歴史があったのだなと思えた一冊だった。

 物語全体が既視感を見てるようなそんな小説だった。

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